Sergei Parajanov Museum

Posted カテゴリー: 2010 アルメニア2010 コーカサス

フランス文学概論の、たしか第1回目の講義だったように思う。
西谷修氏は突然にイコンの話をはじめ、パラジャーノフの「ざくろの色」を紹介した。

当時、こむずかしい映画など見たこともなかった私は
この映画に心酔した。

シュルレアリスムを体系的に知る前だったので
彼がシュルレアリスムの作家に分類されることも知らなかった。

10年以上過ぎ、念願のアルメニアを訪れた。
「ざくろの色」の撮影場所だったサナヒン修道院、ハフバット修道院にも行くことができた。
アルメニアに行くと、教会、土産物屋、そこかしこで柘榴のオブジェが売られている。
木彫りのそれは、塗料のせいで妙にぬらぬらと光っていて
割れ目からのぞく実はグロテスクですらある。
そんな柘榴がアルメニアのシンボルなのだという。
そうか、だから「ざくろの色」なのか。

そして、彼が終の住処に、と選んだ場所に建つ
瀟洒な館で、彼の作品を見た。

Sergei Parajanov Museum

Armenia

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9時にグルジアを発ち、およそ1時間20分でグルジアとの国境へ車で向かう。

国境近くはロシア語を併記している看板が多い。
国境の手前で車を降り、高速の料金所のようなところを歩いて通る。
イミグレは5分ほど。 細い川を渡り、今度はアルメニアの料金所のようなところで査証を取得。(30ドルくらい)
並ばない人々に苦戦しつつも、窓口にパスポートをねじこみ取得。

アゼルバイジャンとトルコとは長きに渡る紛争のため国境は閉鎖しているわりに、こちらの国境はずいぶんとゆるい。
ガイドのKristinaが迎えに来てくれた。 アルメニアはグルジアとちがって親ロシアという印象。
旧ソ連のモニュメントも遺っているし、アルメニア人は母国語と同じくらいのレベルでロシア語が話せる。
グルジア人は昨今、ロシア語教育をやめて、第2外国語を英語にしているので
グルジアでガイドしてくれたNaziはロシア語はまったくしゃべれない。

国境付近で身柄引き渡し(?)のとき、KristinaとNaziが携帯で連絡をとりあってくれたのだが
Naziが「すいません、ロシア語わかりません!」と言っていたのが印象的だった。
KristinaはNaziがロシア語が話せて当然とばかりに、いきなりロシア語で話しかけたのだろう。

途中、ハフバット修道院・サナヒン修道院という廃墟をめぐり、
(ここはパラジャーノフの「ざくろの色」が撮影された場所だ)
セヴァン湖で休憩し、3時間あまりで世界最古の都市のひとつ・エレヴァンへ到着した。

gallery: Armenia

Georgia

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8月14日、アゼルバイジャンのバクーから飛行機で2時間
グルジアの首都・ティビリシに着く。

1時間待ってもガイドが迎えにこず、日本のツーリストに教えられた携帯番号にかけてみるも通じず
(国際電話の番号が記載されていたので、市外局番が一部省略されてたのですな。改善してほしい!)
そのへんにいた優しいお姉さんが自分の携帯で電話をしてくれるも
「今、ほかのグループのアテンドをしているので動けず!」とのこと。
現地の旅行代理店にキレまくりで電話をし、結局は自力でタクシーでホテルまで行ってそこで合流することに。

平謝りしながら来たのは23歳のかわいこちゃんだった。許す!

グルジアは正式名称をサカルトヴェロと言う。
グルジアはロシア読みで、英語では「ジョージア」という。。
通貨はラリ。 宗教はグルジア正教。

アジア、イスラム、ロシア、ヨーロッパがミックスした面白い街だった。

Tokyo-Moscow-Azerbaycan

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2010年8月13日から20日までコーカサス地方を旅してきました。
今回は、Picasaを使って、写真を中心に旅行記を綴ろうと思います。
お時間あるときにご覧いただければ幸いです。

■ アゼルバイジャン

東京からモスクワのシェレメチェボ空港まで9時間。そこから飛行機で2時間のフライト。
深夜の23時にアゼルバイジャンの首都バクーに到着。
バクー油田で有名、と言われたけど、地理をまともにやってなかったので知りませんでした。すみません。
コーカサス3国、唯一のイスラム圏だが、トルコと関係が深いだけあってかなりリベラルな印象だった。
女性もスカーフをかぶっている人はほとんどいない。

産油国だけあってかなり豊かな国、という印象。 ガイドのアシェさんは肝っ玉かあさんというかんじの女性で英語も達者。
ペレストロイカ周辺の動乱のこともよく覚えていて、動乱の犠牲者を悼む一方、
独立と自由を心から喜んでいるというかんじであった。

街は新築ラッシュで、新しい建物はほとんどがヨーロッパ様式の
ネオクラシックだった。スターリン様式の反動かもしれない。